ホームステイ期間中に、どれだけの参加者がこの様な、ホストファミリーとの衝突や論争を経験するのかわからない。それ程に多くはないであろうというのは、彼らの語学力から類推できるが、この事件はホームステイ期間中、彼女にとって最大の衝撃だったらしい。私は後日、彼女からこの事件の事に関して直接、様々な問いかけをしたが、彼女にしてみれば、今でも心のしこりとなっているらしい。また、この頃が最も深刻に精神的にも肉体的にも落ち込み、心から楽しめない時だったらしい。そして、何故、キャシーがあんなに怒ったのかは今でも分からないと言っていた。もちろん、私にもその理由はわからない。せっかく、彼女の好きな魚釣りに友達に頼んで連れて行ってあげたのに、その間中、ずっと何もせずに奥のほうで小さくなっていた彼女の態度に憤慨していたのかもしれない。彼女の洗濯方法の意図がわからず、不経済な方法に気分を害したのかも知れない。その理由は謎でも、大事なことはキャシーが何らかの理由で怒り、彼女にその怒りをぶつけ、彼女はなすすべもなく、途方に暮れて、心にわだかまりが残ったということである。
ホームステイは人工的に作られた家族関係の中にファミリーが成立する。同じ家の屋根の下に生活するよそものは、本当の家族ではない。家族として生活はするが、両者にとっては限られた時間内の表面的なものである。ところが、時間の経過と共に、すなわち、時間と空間の共有の長さは、両者に一体感と連帯感を共有させてくれる。どこの誰か知らなかったものが、情が通じ、心が通い、ふれあいの中に互いの存在が段段と大きくなっていくのを感じる。
そして、心が一つになったかのごとく錯覚すら覚えるが、ここまでは誰でも体験するホームステイの表面的な成り行きである。でも、両者に壁は歴然として存在するのである。そしてこの壁が、ホストファミリーと心底から家族の一員として生活できない遠因の中核をなすものである。それは「建前と本音」「理性と感情」「体裁と実際」の間にある壁である。すなわち、人工的に作られた血のつながらない家庭生活では、遠慮とか、欲望の抑制が必ず両者に発生する。お互いがうまくやろうと努力するため、本音より建前が優先し、感情を理性が抑圧し、実際より体裁を繕う姿勢が両者にある。そして同様に、言葉による相互理解が不自由分であることによるストレスが、ホストファミリーにも参加者にも生まれる。この両者に存在する障壁の両サイドには、お互いに不満分子のエネルギーが蓄積され、何らかのきっかけにより着火されたエネルギーの爆発がなければ、最後まで往々にして蓄積され続くものである。すなわち、両者の「妥協的な歩みより」で、技術的に、そして、対面的にその場を糊塗するだけというものが、ホストファミリーと参加者の往々の実状であるかもしれない。
もしくは、両者が異文化を感じながらも、我慢しながら、忍耐を強要されながら、残された数日をカウントダウンしながら待つという生活かもしれない。それは、言うまでもなく「理性」の世界である。「理性」によって両者の溝に横たわる問題を解決しようと試みるが、その解決が見られない時には、ホームステイが終わるまでの忍耐という消極的な解決策にならざるを得ない。先程、私が述べた「何らかのきっかけ」とは、この「理性の世界」に対応する「感情の世界」である。赤裸々な欲望を露骨にし、遠慮を決してしない、感情のおもむくまま、自己を剥き出しにした言動が、通常の日本において血のつながった親子関係で見られる生活の原型と言っても過言ではなかろう。お互いが「感情」を露骨にすることにより、この最後の障壁はとり除かれ、乗り越えられ、真実の家族の一員として、互いに敬意を払い、認識しあうようになるのである。その様な意味で、私はこの「事件」は、最後のお互いの「体裁」とでも言うべく「障壁」を取り除く、起爆剤となったように思うのである。実際にこの時の彼女の心苦は絶え難いものであったらしい。その日の日記の最後に「ここが今の私の居場所なんだ。」と記した後、自分自身を諭すような思いで「な。」だけを付け加える彼女の心が痛々しい。四面楚歌、孤立無援の心境であっただろう。今、その壁を乗り越えて行こうとする悲愴な決意を見る思いがする。事実、この事件のあった日と、次の日の両日は、彼女のホームステイの中で、ある意味では「ハイライト」とも言うべきものである。
|