アカデミックホームステイに参加したある中学生のホームステイ記録(日記)です。彼女がホームステイの中で、何を感じ、何を思い、何を考え、何を得たのか。

HOME > ある中学生のホームステイ日記 > 04日目 08月03日

 
■ はじめに 目次 登場人物
■ 01日目 07月31日
■ 02日目 08月01日
■ 03日目 08月02日
■ 04日目 08月03日
■ 05日目 08月04日
■ 06日目 08月05日
■ 07日目 08月06日
■ 08日目 08月07日
■ 09日目 08月08日
■ 10日目 08月09日
■ 11日目 08月10日
■ 12日目 08月11日
■ 13日目 08月12日
■ 14日目 08月13日
■ 15日目 08月14日
■ 16日目 08月15日
■ 17日目 08月16日
■ 18日目 08月17日
■ 19日目 08月18日
■ 20日目 08月19日
■ 21日目 08月20日
■ 22日目 08月21日
■ 23日目 08月22日
■ 24日目 08月23日
■ 25日目 08月24日
■ 26日目 08月25日
■ 27日目 08月26日
■ 28日目 08月27日
■ 29日目 08月28日
■ 30日目 08月29日

筆 者: 濱 田 純 逸

●08月03日 日曜

ホストファミリーに冷やしソーメンを【注010】ゴチソーした。家で一回見ただけの私がうまくできるはずがない。汁の薬味を買うのは忘れるし、ソーメンもゆですぎてしまった。(作る時間およそ二時間)それでも、みんな「Oh it's good!」などと言って食べてくれた。なんかすごく複雑な気持ち【注011】。写真も【注012】一日でとり終えた。小さなバケツを持たせてどこへ行くのかと思っていたら、いちご取りだった。黒くてすっぱいいちごだ。近くの森みたいな所にりんごがなっていて、ジムがすぐのぼりはじめた。それからは、りんごもぎにはやがわり。家に帰って、すぐ庭で黒いちごをいっぱいのせたアイスクリームを食べさせてもらった。おいしかったな……。先生に【注013】電話するのに、また時間がかかった。どんなふうにかければいいのか、どんなことを最初にいったらいいのか? 紙に「Hello, my name is Miyuki Tanaka. I want to my teacher, Mr. Hanada」と書いたまではよかったんだけど、それからが問題【注014】。勇気がでなくて、ベッドで泣いてしまった。夜、九時頃やっと決心してかけたら、なんのこともなく、すんなりいった。いい体験【注015】したな……。終わった時は、キャシーと一緒に胸をなでおろした。これからも、今日みたいに、辞書をおおいに活用してTRYしよう!

注010
私どもは二日間にわたる出発前の事前学習会で、現地における交流の仕方と異文化学習の仕方を具体的な実践例に基づき指導するが、このくだりは、その際の指導に見事に応えたものである。この日本料理の提供はそのほんの一例であるが、それらを通して参加者が学習できるものが数多くある。これらのことを実践した参加者と、そうでなかった参加者の結果は雲泥の差である。国際交流は体験学習であり、積極的な交流体験を実践してこそ意義がある。だから、参加者がホストファミリー先で積極的な交流を自ら行わない限り、そこはホテル同様の生活であり、価値は存在しない。ところが、数多くの参加者とその保護者は、ホームステイすること自体に価値があると考えている。まずこれは大きな落とし穴である。すなわち、ホームステイは異文化学習の方法論であって、目的ではないのである。ところが、海外に行くという行為から、ホームステイすることが目的化しやすい環境がある。国際交流でも同じことが言える。国際交流は方法論であり、目的は国際理解である。ところが、国際交流をすることで目的を達成したかのごとく錯覚が生まれやすい。現在の日本中の至るところで地方自治体が中心となって取り組む、或いは任意の国際交流団体が行い、益々盛んになる国際交流にしても、国際交流の実施がお題目として先にある。初めに国際交流ありきで始まるのである。そして、どこかの外国の都市と交流しようとして、その都市に児童、生徒、学生、社会人を派遣し、そして次に、そこの人を今度は受け入れようと画策する。それが交流としてうまくいくと今度は姉妹都市盟約に話は広がり、盟約締結が終わると、それを頂点に交流の火種は下降線の一歩をたどり、国際交流のブームが去れば、海外に名目上の姉妹都市が残るという泰山鳴動の物語である。もちろん、国際交流という方法が、国際理解や異文化理解の最善の実践的な方法論であることはいうまでもないが、経費的な問題性があることを考えれば、国際理解や異文化理解の学習会や講演会などの別の方法論やアプローチの仕方も多様にあろう。また、実際に国際交流を行うのであるなら、参加者に国際理解のための具体的な学習の仕方や異文化の事前学習が必要であろうし、それがなされて効果的な成果が期待できるものである。国際交流は行われても、参加者の自発的な英語の学習が関の山で、具体的な交流上の学習の仕方や、異文化における危機管理や、事前の異文化学習や自文化学習はほとんどなされていないというのが現状である。
注011
ソーメンを作るまでの悪戦苦闘の二時間も、ホームステイならではの交流の貴重な生きた時間でもある。おそらく、ソーメンができあがるまでの間、家族の誰かが近くにいてずっとそれを見ながら、身振り手振りで話が盛り上がったことは想像に難くない。ソーメンを実際食べる時以上に、そこにいたるまでの過程の共有する時間と体験が至宝なのである。でも、彼女にしてみれば、本当のソーメンの味を食べさせたかったのであろう。その結果に固執する姿勢がいじらしい。そして、うまくいかなかったにもかかわらず、それを「Oh, it’s good!」と誉められて悪い気持ちがするはずがないにもかかわらず、素直にそれを喜ばず、「複雑な気持ち」と表現するところに、彼女の真摯な態度と真面目に取り組む姿勢が見え隠れする。
注012
この日記のいたるところに、写真やフィルムの話題が登場するが、これも私どもの事前指導が原因である。有名な観光地などで写真を撮るのではなく、身近な日常の生活風景や様子をできるだけ多く写真にすることを、参加者に指導している。つまり、ホームステイの最もホームステイらしい部分である家庭での様子を、参加者達は案外撮影しないものである。些細なことではあるが、帰国後、最も貴重な資料となるのはこれらの写真である。そして、そのことに気がつく人は、撮ったホームステイ中の写真を自宅で見る参加者の保護者である。
注013
ひとつの中学生グループは約25名の参加者と一人の日本人教師によって構成される。期間中はこの日本人教師が日本語で相談できる唯一の大人であり、参加者の様々な相談や悩み、英語に関する質問などに対応してくださる。彼女が電話をかけたかった相手は、この引率教師である。
注014
ここは極めて貴重な述懐である。なるほど、参加者達は慣れない英語に悪戦苦闘の毎日であることは想像できたし、理解していた。でも、その心の有様は彼女がここに記すほど、大変なことであるという認識は全くなかった。このくだりを読めば、本当に些細なことが異文化では大変な労苦につながっていると実感させられる。そんな不安な思いの中、勇気を出して電話をかけ終わるまでの展開は、妙に納得できるものがある。おそらく、誰でも一度はこんな思いをしたことがあるのではなかろうか。
注015

異文化の生活が慣れない生活ならば、常に挑戦する勇気が大切である。新しいことへの挑戦がなければ、異文化の生活に価値はない。勇気を持って前に一歩踏み出した時、それまでの苦悩が巨大であればあるほど、得られる喜びもまた大きく、勇気も倍増する。彼女の「いい体験したな…。」というつぶやきには、安堵感すら感じさせる。電話をかける前、勇気がなくてベッドで泣いた時、彼女と一緒にキャシーも涙を流したらしい。この共有する時間と空間と涙が両者の心をつなぐものであるし、それがホームステイの真骨頂でもある。その時、彼女は変わらぬ愛情を感じたと帰国後のある原稿の中で述べている。いずれにせよ、この電話をかけることさえも彼女にとっては、想像を絶する程の勇気がいったらしい。

私が出発前の研修会において最も生徒に要望することのひとつに「自主性」がある。「TRYの精神」がなければ、アメリカ社会では生活することにも困難を伴うと説明し、また、積極的な自己主張がアメリカ人の美徳であると断言する。このことは出発前から彼女の頭の中に大いにこびりついていた様で、これを実践すろことが彼女のホームステイの終極的な目的でもあったと、後日、私が彼女の家を訪問し、いろいろと質問した時に、折にふれて話してくれた事でした。いずれにしても、この「いい体験したな・・・。」としか日記には記されていないので、これ以上を日記においては知ることはできないが、先述したように、この体験をもとに、帰国後出場した弁論大会で、彼女は次のような原稿を作成している。ホームステイ期間中における単なる一つの体験であろうけれども、この体験が彼女に与えた影響がいかに大きいものであるかを知っていただくために、ここで紹介したい。

 

「もっと大きく」

「おまえも一度行ってみないか。」と、言うので、今年の夏、私はアメリカに行きました。父や母は、私の消極的な性格が少しでも変われば、というので決心がついたらしいのですが、私の方は(おもしろそうだな)ぐらいの気持ちだったのです。しかし、その気持ちも、日がたつにつれて不安へと変わっていきました。(たった一人で大丈夫だろうか。)私は複雑な気持ちといっしょに三十一人の仲間達と飛行機に乗りこんだのです。そして二日目、私をむかえてくれたのは、すばらしい家族でした。一ケ月間住む家の玄関には、買ったばかりのこいのぼりが泳ぎ、子供達の部屋の黒板には「WELCOME」(ようこそ)と書かれてあったのです。私は一瞬、今までの不安が消えたのを感じました。そんな、ほんの一時の喜びも感激も夜になるとさびしさに変わり、私を困らせました。私を二晩も泣かせた一番の悩みは、なんといっても言葉の違いです。でも、それがかえって私を感激させたこともありました。

アメリカに来て、ちょうど一週間程たったころ、私は電話をかけなければならないことになったのです。お母さんから話し方を習って紙に書いたまではよかったものの、そこで私はまた考えてしまいました。みなさんは(何も電話一つで脳むことはないじゃないか)と思うかも知れません。でも私は、人一倍の心配性です。(途中でわからなくなったらどうしよう)(何か聞かれたら…)そんなことを考えているうちにどんどん鼻がいたくなってくるのを感じました。おかあさんが、心配した顔で私の目を見ているのに気づいて、私はいつものように単語を並べました。「私には勇気がない。」とそう言ったのです。おかあさんの青い目が赤くなって、びしょびしょにぬれてくるのを私は見ました。それから言ってくれた言葉を私は絶対忘れないでしよう。「TRY」その一言に私は受けとれないほどいっぱいの愛情を感じました。「やってみなさいミユキ。がんばってミユキ。」私の耳にはたくさんの言葉がこだましました。そして自分が、あまりにも小さかったことに気がついて急にはずかしくてたまらなくなりました。それといっしょにうれしさもこみあげて(こんな私でも、家族と思って心配してくれた。本当に愛してくれている。)私は胸がはれつしそうなのを感じました。みなさんのおかあさんともたぶん違いはないでしょう。でも、みなさんとみなさんのおかあさんとは愛情の他に血のつながりがあります。今までの長い生活もあります。私の場合は、そんなものは一つもありません。ただあるのは愛情だけ。それでもその間のつながりは、みなさんとおかあさんとの間と同しくらい固かったと私は信じています。

別れの日、私は、目の色も、髪の色も、言葉も違うお母さんとお父さんの胸にだきよせられてまた泣きました。大きな胸はそのまま大きな心だったんでしょう。とてもあたたかだったのを覚えています。私はアメリカで一ケ月生活して、自分の心の小さくてせまいことを思い知らされました。そして、これはそのまま日本人みんなにいえることじゃないかと、このごろ思います。「日本はとても安心してくらせる所」と言われている反面「日本人はうさぎ小屋に住んでいる。」「働きすぎだ。」とも言われていることを、みなさんは知っているでしょうか。「子供の頃は塾やテストに追われ、大人は大人で仕事に追われ、あげくには使い古された品物のように、一つの部屋におしこまれる。」そんなケースが多いと思いませんか。その中で自殺が増えるのも非行が増えるのも、不思議じゃありません。日本はせまくて、うさぎ小屋に住むというのはわかります。でも、心までそんなところにとじこめておくことはないんです、心は、もっと自由におどらせ、ふくらませ、そして、大きくしていかなければならないもの、そう思いませんか。

 ⇒ 翌日(05日目 08月04日)へ

登 場 人 物
中学二年生のホームステイ参加者/鹿児島県出身 田中みゆき
ホストファーザー/ワシントン州シアトル市在住 ジム アレトン
ホストマザー キャシー アレトン
7歳の双子の姉 ラナ アレトン
7歳の双子の妹 キム アレトン
ホーム 会社案内 お問い合わせ サイトマップ 
MNCC 南日本カルチャーセンター 
Copyright © 2007 MinamiNihon Culture Center. All Rights Reserved. http://www.mncc.jp