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●高校留学の落とし穴
「憧れの留学」「夢に見た外国生活」「英語を自由に話す自分」など、数多くの留学希望者に、周囲の者がいかに留学の厳しさ、困難さを諭しても、彼らにそれ以上の希望がある限り、自らが体験するまで現実を理解できません。ですから、センターではそれはそれなりに仕方のないことだと考えています。
むしろ、最も大事なことはただひとつ、高校留学を志そうとする人やその保護者の方々には、高校留学の危険性と落とし穴を充分に認識して、その実態を把握しておかれることだろうと思います。「高校留学の成功について」を一言で表現するのは無理があり、数十ページにわたる議論が必要ですが、「高校留学の危険性や落とし穴」を指摘するのはそれほど困難なことではありません。また、「高校留学の魅力や有益性」に関する意見や考えは数多く見ることができますが、「高校留学の危機性や落とし穴」に関するものはほとんど希有です。ましてや、高校留学プログラムを運営する側が、それらをホームページ上で、事前に指摘することは皆無です。でも、センターでは、参加される側にとってそれは大変大切な情報の一つであると考えておりますので、ここではそれを指摘しておきますので有効に役立てて欲しいと思います。下記に記載されている8項目は、センターの長年の経験と実績から指摘できる高校留学の落とし穴と危険性の真髄です。決して、一方的に高校留学を美化しないためにも、これらの意味を良く理解して欲しいと思います。でも、このことで必要のない不安や恐怖心を留学生たちが抱くのであれば、それはセンターの本意ではありません。これらを知ることによって、より前向きな気持ちで接していただきたいのです。すなわち、下記のような落とし穴に落ちる事のないように留学生活を実践すれば、自ずから良好な結果と有意義な留学体験ができるのだというとらえ方をしてもらえば、あえてその危険性と落とし穴を説明する意義があるというものです。
- 自己判断力のままならぬ日本の高校生が、自己責任を背景にして、孤立無援の異国の環境で自ら判断しなければならない危険性とその厳しさがもたらす自立は諸刃の剣です。つまり、もし間違った判断でもあろうとも、その結果は自己に直結しています。判断力を磨くために、客観性を養うことが急がれます。
- 留学後の結果として、英語力アップが必然的に付随してくるわけではありません。目的のない留学では、英語力の飛躍はそう期待できません。多くの日本人が考える「留学=英語力の上昇」という構図は、とんでもない誤解です。
- 多くの人は、「留学」そのものに価値があると考えています。しかし実際は、「留学で得られるもの」に価値があるのであり、主体的に自らが取り組まなければ、「留学」そのものに、価値は皆無です。
- 影響されやすい、流されやすい日本の高校生が、誘惑の多い環境で自分だけを頼りとして、自分の足を大地につけて、一人で立ち続けなければならないという厳しい環境がもたらす功罪があります。つまり、克己心があれば自立できるでしょうが、自己管理ができなければ、際限なく流されていくだけです。
- 米国では、自由という巨大な快楽と、責任という巨大な苦悩は、同じコインの裏と表の模様です。小さな自由と小さな責任が、別々のコインとして存在している日本の高校生には、自由という快楽しか見えてきません。
- 米国はすべてが自己責任の国であるという厳しさを知らなければいけません。
- 自己主張のない者は、敗者となるのが米国社会です。英語ができないとか、恥ずかしいとかなどの理屈や弁解は不要です。主張することが先決なのです。
- 米国では高校生に対して、「まだ子供だから」という周囲の者の理解の姿勢は全くありません。また、本人もそれを言い訳や弁解にはできません。その環境は日本の生徒にとって、非情であり過酷なものです。つまり、日本にいる時に、できるだけ親から自立しておくことが必要です。
- 高校留学は、日本で失うものを引き換えにして、米国で得るものが存在しています。そして、得るものの量は、事前学習に正比例しています。つまり、事前学習のない留学は遊学でしかなく、得るものより失うものが多くなり、留学の意義は半減します。
- 異文化での留学生活は、「驚き」と「不満」と「困難」と「苦悩」と「戸惑い」を常態としています。つまり、そこは文化的戦場であり、留学生は戦士です。戦士である以上、理論的武装が必要です。事前学習とオリエンテーションが、その理論武装の場であり、怠惰であれば理論武装のない戦士となり、文化的戦場では敗北を意味します。
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