ホームステイとは、何のために行くのか? 

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■ 1 教育の一環として
■ 2 ホームステイの特殊性
■ 3 中学生の場合
■ 4 何のために
■ 5 終わりに

執筆者: 南日本カルチャーセンター 代表取締役社長  濱 田 純 逸

■ 4 何のために

 これまで各項で断片的にふれてきましたが、わずか数週間から一ヶ月間程度のホームステイの中で、参加者がいったい何を得るのかという問題について、考えてみる余地があるようです。そうでなければ、これだけ多くの参加者を取り扱っているセンターとして、はなはだ無責任な話ですし、センター、つまり主催者の意図と保護者の認識には齟齬があるかもしれませんし、センターがこの事業を「教育の一環として」、また、「国際理解教育事業として」実施している姿勢も、不毛と言わざるを得なくなります。でも、逆に言えば、このことを説明してしまえば一つの断定が生れ、誤解を招きかねないことでもあります。だからこそ、これだけ多くの国際交流プログラムを実施する主催者があるにもかかわらず、旅行会社を始めとするどの団体にしても、この「何のためにプログラムは存在するのか」という問題に対して、言及しているところは皆無なのでしょう。その禁断を敢えて犯してまでも、説明する以上は、誤解のないように、注意深く本章をご覧いただきたいと思います。

特に保護者の方々としましては、短期間といえども、子どもの異文化生活体験の中に、何らかの成果を帰国後の子どもに発見して、初めて参加させただけの価値があったといいたくなるのも理解できる話で、もし仮に、何らかの成果もなければ、わさわざ、海外に子どもを遊びに行かせたということになってしまいます。ただ、「子どもが行きたいから行かせる」という保護者もいらっしゃるとは思いますが、ほとんどの保護者が、それぞれあらゆる目的意識と思惑をもって、子ども達を参加させていらっしゃることだろうと思います。各自が参加にあたって、目的意識を持つことは、非常に重要なことではありますが、早急にその成果を求めることは無理な話だと思います。特に参加者の人格的成長に関連する成果が、センターのホームページにも指摘されておりますが、帰国直後に、目に見えてその傾向が見られるようなものではありません。(センターホームページの「ホームステイの実態調査」)

はなはだ失礼で、無責任な言い方ではありますが、短期間の異文化生活を通して得られる「直接的な成果」というものは、それほど多くのものがあるわけではありません。なぜなら、短い期間内で得られる「成果」には、当然のことながら、時間的制限からなる限界があるからです。例えば、英語に関することがそうだろうと思います。短期間で当然英語力が身につくわけでもなく、異文化学習がどれだけ短期間で成し遂げられるかも、大きな疑問です。確かに、英語のヒアリング力については、参加者が若いだけあって慣れによる相当な向上は期待できます。また、「国際感覚の育成」「国際的視野の涵養」などを目的として、参加される場合などが非常に多いのが現状ですが、ただ漫然と参加するだけでは、それも土台無理な話です。それらの目的を達成するためには、間違いなく主催者による指導と助言が必要であり、参加者のそれなりの努力も必要です。過去10年近く、交流プログラムが盛んになるにつれ、ホームステイによる国際交流プログラムに参加すれば、そのような目的を達成できると、漠然とお考えになる保護者や参加者が後を絶ちませんが、全くの誤解であり、盲信に過ぎません。(これらに関しての詳細は、「ホームステイの現状と提言」をお読みください。)

厳密に文言を選びながら、プログラムから得られるものを、主催者の視点と経験で説明すれば、それは「成果」ではなく「きっかけ」であると指摘するのが適切だと思われます。少なくとも、センターの主催する短期間の国際交流プログラムでは、そう説明することが出来ると思います。相当の滞在日数と費用を費やして、参加者が得られるものは単なる「きっかけ」でしかないのです。これをお読みになる保護者の方は、この単なる「きっかけ」という指摘に、大きな驚きと不満をお感じになるかもしれません。多大の労力と多額の費用の対価が「きっかけ」では納得できないという感想をお持ちになるかもしれません。しかしながら、この単なる「きっかけ」の持つ意味は、かなり深く、重要であり、注意して理解しなければなりません。(この「きっかけ」を得る過程の資料として、「ある中学生の日記」をご参照ください)

年端もいかない参加者達が異国の生活体験の中で、見、聞き、肌で感ずるものは、はかり知れないほどの驚きと感動と動揺があります。道路の大きさに驚き、国土の広大さにびっくりし、人の心の大きさにも感銘を覚え、習慣にとまどい、異文化に不安を感じます。また、言葉が思うようにならない生活に苛立ちを覚え、異なるやり方や方法に驚きながらも、その環境に適応していく過程は驚愕の連続です。さらには、日本の家族や保護者と会えない孤独感、他人の家庭にいる孤立感など、楽しい事だけではなく、悲しい事があったり、時には寂しい思いをしたり、不満な事があったり、そのような様々なできごとを、アメリカという環境の異なる生活の中で、参加者達は体験するのです。そして、日本という国以外に実在する外国の存在を実感し、そこに家族を持ち、人的ネットワークの拠点を築くことになるわけです。帰国時に、参加者の心に去来するものは「アメリカという国への親近感」であり、もう一つの家族の住む「第二の故郷」の存在であり、そして、自由に使えなかった異言語、すなわち英語を強く学びたいと感じます。

感受性の強い年代であるからこそ、このような体験が彼らの一生を左右する程の衝撃をもたらすわけです。おそらく、それは物心ついてから、初めて体験する衝撃と言えるでしょう。日常性に埋もれ、日々の目先の活動に汲々とし、惰性の中に退屈なほど繰り返される慣行をまた踏襲しながらも、盲目的、他律的なその日常生活に疑問を感じ始めた、自我確立直前のこの年代の参加者には、余りにも強すぎる刺激かもしれません。先程、私が述べた「きっかけ」の起因となるのが、この「刺激」であるのは当然のことです。生まれて初めての異文化の生活環境の中で、精神を根底から震憾させられる程の「刺激」が、あらゆる方面への活動の原動力となる「きっかけ」を生み出すわけです。そして、この「きっかけ」は、若い参加者達の内面性や性格さえも変革させてしまうようです。

ここでは、「積極性」の問題を例にあげて述べてみましよう。帰国後、保護者の方、また、担任の先生方から最も多く聞かれる意見は、「参加者が非常に積極的になってきた。」ということであります。また、センターが実施したアンケートによっても、その結果が証明されています。例えば、この現象の原因となるものは、容易に理解する事ができます。すなわち、アメリカと日本の教育やしつけに対する根本的な考え方の相違、また、大人の子どもを見る眼の価値観の相違にその原因があります。

以前、引率で行かれた先生が、現地の先生に「アメリカにおける良い子とは、どのような子どもですか」という質問に返ってきた答は、「当然ながら、自分自身で健康管理のできること。そして、積極的であり、自立していること」というものでした。これは、私自身も数多く耳にしたことの一つでありますが、アメリカの大人たちが、子どもに対して求める一般的価値のようです。それでは、同じ質問を日本の大人たちにした場合、果たしてどのような返答が返ってくるのでしょうか。「明るく元気な子」「活発でものおじしない子」「積極的ではきはきした子」など、様々な考えがそこに反映されるでしょうが、誰もがその価値を否定しないもののひとつに、「学校の成績が優秀であること」という、いわゆる優等生タイプの子どもの姿を、自然に想起してしまう現実を、我々は否定することができないと思います。この両国におけるイメージの相違は、ただ単なる価値観の相違として、看過することはできません。なぜなら、我々は、この「良い子」に対する理想的イメージをもってして、子どものしつけや、教育を行なおうとするからです。ですから、当然のことながら、アメリカの子ども達は、周囲の大人達から積極性や自立を促されながら、育つのであり、その結果、そのような人間が多くなり、それがその国の国民性と相関してくるわけです。そして同様に、日本の子ども達は日本で生活する限り、周囲の大人達からは「成績が良いこと」に代表される、唯一無比の「学業成績」という単眼だけで、その価値を斟酌され、指導を受けることを意味しております。ですから、高校生より中学生、小学生と、年少化すればするほど、将来の可能性は高くなるため、成績の優秀な子どもが多くなるのもうなずけることです。その反面、優秀さから脱落した子ども達は、ほとんど屍のごとく、十代にして脱落することとなります。また同時に、目的を達成した優秀な大学生達は、まるで、それまでの努力の褒美として、また、社会に出る前の休息の場として、長閑な大学生活が与えられ、それまでの価値から完全に解放されるため、これもまた急速に怠惰になっていくのも、自明のことかもしれません。「末は博士か大臣か」「村一番の神童」など、幼少時の優秀さを称える言葉は多くても、「二十歳過ぎればただの人」で終わる日本人の教育観は、その縮図のような感じさえします。

その点、アメリカの大人たちの求める「積極性と自立」は、人としてもっと根源的なものであり、教育よりもしつけにその重点が置かれていると言えます。実際にアメリカ社会では、日常生活のいたる所において、積極性を要求いたします。すなわち意志と意思が必要であり、自己主張が求められ、主体者が自己の判断の元に、その意思を反映する行動をとらなければなりません。例えば、ひとつの飲み物を飲む時も、コーヒーを飲むか、紅茶を飲むか、コーラか、ペプシかという選択肢を、飲む者がその自由意思で決定しなければなりません。コーヒーと自分の意思を告げたとしても、矢継ぎ早に「ミルクを入れるかどうか」の判断を聞いてきます。ミルクは入らないと答えれば、次に、砂糖はどうするかの質問です。これも、生活の節々に、自己判断や自己主張が要求されている現象の一つに外なりません。日本における「どちらでもいい」という答は有りえない、不可思議な発言です。そんな生活環境の中で、参加者はホストファミリーと過ごし、「イエスかノーか」を聞かれ、意見や判断を求められ、自己主張をせざるを得ないといったような状況におちいります。そしてしばらくすると、参加者は、自ら考える事を始め、自ら判断し、自ら行動を起こすという主体性と積極性が芽生え始めます。その時、彼らの主体性や積極性を強く支持し、鼓舞する周囲の、つまりアメリカ人の賛同や声援があるため、参加者は極めて芽生え始めた自分の意思や自分という存在そのものに、自信を感じ始めるようです。そしてさらに、それが心地よく、生きている実感を与えてくれるものであるため、反動的に、益々、その性向を強くしていきます。

「日本人は、内気で、控えめ、恥ずかしがりやで、依頼心が強い。」と、現地の先生はアメリカ到着後の参加者を見て、すぐに彼らの特質を捕えて引率の先生に言います。言葉は理解できなくても、その行動のあり方ですぐに理解できるわけです。この「内気で、控えめ、恥ずかしがりやで、依頼心が強い」という概念は、「積極性と自立」と言う概念とは、真逆の価値観であるわけです。つまり全く正反対の価値観を持つアメリカ人だからこそ、参加者のこれらの特徴を敏感に感じ取れるのだと思います。もちろん、この指摘は、参加者達だけでなく、一般的な日本人の国民性と言うこともできます。それらが育まれる背景は、一言では表現できないでしょうが、日本の歴史や風土や文化が介在していることは間違いないでしょう。その中で「謙虚さ」や「和」や「思いやり」などの概念が、日本の伝統的文化の中に美徳として受け継がれ、一つの価値として脈々と息づき、そんな環境で生活している日本人の国民性が、前述のように指摘されるのも、当然と言わなければなりません。ましてや、指摘する人が、ほとんど正反対の価値観を有する環境の中で生活しているわけですから、奇異に感ずるのも推して知るべしです。参加者は、「彼らの眼」で見られ、その視点で指導されるわけですから、日本とアメリカの価値観の相違をまざまざと体験することになります。その体験が、参加者の新しい「眼」を生み出す「きっかけ」になるわけです。

ですから、例え短期間でも、日本の参加者が「積極的で、自立」を価値とする国で家庭生活をおくれば、当然のことながら、自分の中に潜在的にあるその性向が醸成されるのは自然なことかもしれません。参加者が積極的になったという事も、それをよしとする環境の中で生活したからという事に外なりません。

「積極性」についての例が、長くなりましたが、これに限らず、あらゆる「きっかけ」が、この太平洋をはさむ日米両国のほとんど正反対の価値観や習慣の中で醸成されていくこととなります。つまり、両国が異なる価値を有するからこそ、それを体験するものには大きな刺激や衝撃となりうるわけであり、それが「きっかけ」を生み出す源になっているわけです。そういう意味では、ホームステイの一ヶ月間を終えて、日本に帰ってくることは、確かに「旅」の終わりではあるのですが、参加者にとっては、それぞれに、彼らなりに触発され、動揺し、つかんだ「きっかけ」を原点とした、すなわち、新しい認識をふまえ、新しい視野に立ち、そして迎える、新しい「人生という旅」へのスタートなのです。強いて極言するならば、ホームステイの成果は、そのスタート台への到着であり、そしてまた、その真の成果と意義は、以後の彼らの生涯の中に具現化すると確信いたします。

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