ホストファミリーに求めらるものって何? 外国人をどのようにお世話すればいいの? 問題が起きたらどうしたらいいの? 決してやってはいけないことって? そんな疑問にお答えする短期異文化交流の手引書です。
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筆 者: 濱 田 純 逸 A. 異文化交流の意義異なる文化を持つ国の人達が、時間と場所と空間を共有して過すことが異文化交流です。そこは新しい発見と刺激に満ち満ちています。それまで、自国の文化しか知らなかった者が、他国の文化を意識し始めるようになります。それは、すべてを何の疑念なく受け入れていた自国の文化に対して、疑問を抱くようになることでもあります。自分にとって当たり前だったことが、当たり前でなくなります。一つの方法しか知らなかったことに、別の方法があることを思い知らされます。大げさに言えば、既存の価値が崩壊します。そして、これがよく言われる「外国から自国を見る」という視点につながることに他なりません。これら一連の交流経緯の中から、深い視点で異文化と自文化を考える視座が生まれていくわけです。それは、交流する両者に対して同様のことが指摘でき、これが異文化交流の意義の一つでもあります。つまり、お互いの持つ文化が相互に影響しあって、新たな価値を創出することにつながるのです。これまで当たり前と考えていたことが、突然、新たな考えの中で崩壊し、そして、旧知の価値と異文化の価値が融合しあって、全く新しい価値に気づかされるのです。それは、異文化交流や異文化理解という活動ならではの成果でもあります。
B. 異文化理解は難しいか それでは、このような多大の成果を期待出来る、異文化交流や異文化理解というものは、例えば日本人の場合、簡単に、誰でもその成果を上げることができるものなのでしょうか。この素朴な疑問に対する実際の異文化交流体験者の答えは、「はい」と言われる人もあれば、「いいえ」と答える人も見られます。すなわち、全く異なる二つの両極端な意見に分かれるのです。その両極端の認識を持つ者が現れるのは何故なのでしょうか。この結論の原因を、一言で表現することは困難です。確かに、両者の人間的な相性と言うものもあるでしょう。異文化をどう考えているかという、お互いの異文化に対する価値観も反映してくるでしょう。言語が大きく異なることから来る誤解が、原因となることも往々にしてあるでしょう。宗教の違いや民族の違いから来る考え方の違いもその遠因となっているのでしょう。原因を一言で表現することは困難ですが、どうすれば異文化交流を成果のあるものに出来るのかという視点で考えてみれば、これらのすべての原因となっていると思われるものを取り除きながら、基本的な方法論は存在しているように思われます。それは何でしょうか。
C. 文化に対する視点それはまず、「文化をどう理解するか」ということから始めるべきでしょう。そして、すべてがこれに尽きると思われます。すなわち、文化をどう理解するかによって、上記の相反する二つの概念に分かれていくと予測することが出来ます。 先述したように、異文化を知らないものにとっては自国の文化がすべてです。異文化を持つ者によって初めてもたらされる、様々に異なる価値観は自国の文化と対比されながら、当事者に受け入れられることになります。その相対的な理解のあり方は当然であって、それが「異なる」という文化の発見につながっているわけです。その相対的に理解することは、極めて大事なことなのですが、相対的な視点がややもすれば、優劣や善悪、是非論的な考えに転化されることが往々にして発生します。でも、これは明らかに間違いです。すなわち、相対的に見ているつもりでも、いわゆる、自文化中心主義の視座で文化を見ていることに他なりません。異文化交流の体験者が、この自文化中心主義で異文化を見たとき、彼らの異文化に対する認識は、総論的に否定的なものにしかなりません。 「文化をどう理解するか」というこの質問への端的な答えは、「いかなる場合でも、文化を優劣、善悪、是非論で見てはならないということ」です。正確に表現すれば「文化は優劣、善悪、是非論で見ることはできない」ということです。すなわち、文化を相対的に対比することは出来ても、優劣で表現することは不可能なのです。このような、いわゆる文化相対主義に立った視点が必要です。 ところが、例えば、ホームステイという異文化交流の場において、初めてホストする方々や、初めてステイする両者は、民族や宗教や国籍に関係なく、上記の自文化中心主義的な視点で文化を考える傾向があります。それは、国そのものにある文明や文化の進展度において、発展途上国とか先進国などと表現されて、大きな枠組みを設けようとする差別的な発想が潜在化していることを原因として、発生しているように思われます。 D. 文化とは何か 「文化が進んでいるということは優であり、善であり、是であるのか」 確かに、人類が脈々と作り上げてきた文明の進化が、人類に対して多大の利益と貢献と利便性をもたらしてくれたのは紛れもない事実です。この文明の進化の格差が、「先進国」と「発展途上国」という色分けを生んでいるのであり、それは文化とは全く関係の無い物なのです。よしんば、例えその認識があったとしても、「果たして文明が進んでいることが優であり、善であり、是であるのか」という命題に対して、私は自然に肯くこともできません。 文化はその国に生きる人々が、独自に作りあげてきた唯一無比のものであり、その背景には「宗教」「言語」「民族」「伝統」「風土」「歴史」「気候」「自然」など、数多くのものがカオスのように存在しております。これらのものが雑多に影響しあい、反映して、その国の文化が生まれます。それは、その国民の経験則のようなものでもあり、いわば固有種であります。そのため、上記の環境や条件によって、常に文化は緩慢な変化を伴っていると言えます。この変化は自主的で、自立性のあるものです。すなわち、一つの国の人が、異なる国の人々から影響を受け、その文化が自主的に変容、変貌して行くことがあったとしても、強制的に異文化を押し付けられ、作為的、人為的な文化が発生することはありえないのです。だから、その国の文化はその国の人々によってのみ、自主的に受け入れられるものなのであり、その国の文化はその国のアイデンティティとして尊重されるべきものなのです。
E. 異文化を受け止めるそれでは、異なる固有種の文化を持った者同士が、同じ時間、同じ場所で、同じ空間の中に生活した場合、いかなることが発生するのでしょうか。おそらくその空間は「文化的戦場」とも表現できるようなことが起こる可能性があります。事前に何の異文化に関する情報の交換もなく、そのまま放置した場合、お互いがお互いを否定し、お互いがお互いの存在を無視し、喧嘩と混乱、衝突や罵倒に終始する、文字どおり、文化的戦場と表現できる事態になると想像できます。実際、宗教戦争や民族紛争は、これらの最も悲劇的な結末なのかも知れません。それを回避するためにはどうすればいいのでしょうか。 それは、異なる文化を「受け止める」ことから始めるという姿勢です。あらゆることにおいて異なるものを、まず、一つの価値として自分の価値の中に受け入れてみるという考えです。異なることに対しては、必ず自然に疑問が発生するものです。すなわち、「何故そうするのか。この方法がもっと合理的ではないか。」「どうしてそう考えるのか。もっと現実的に考えれば異なる結果になるはずだ。」「どうしてもその価値観に納得できない。」「どう考えたって、理不尽である。」などと、思ってみても異文化では詮無いことでしかありません。否、そう考えることは、自文化中心主義的視点に自分が立っていることを意味します。どのような納得いかない疑問があったとしても、根本的に異なるものをただひたすら、盲目的に、あるがままに受け止めることから始めるのです。
F. 異文化を理解する次に、受け止めることから始めた異文化に対して、お互いに理解を示すことが次のステップとなるのは必然のことであります。そして、実際に理解しあえる異文化も数多く存在します。通常の異文化交流において、これらの事を体験しながら、お互いがお互いの文化を理解しようとする姿勢の発露だけで、異文化交流の期間が過ぎ去れば、異文化交流はそれほど難しくないという実感を抱くことになります。先述したように、異文化交流は簡単であると答える方々の大半は、両者が良い思い出だけで交流を終わらせることが出来た場合の話であります。 しかし、現実では、ここに大きな落とし穴ともいうべき問題が大きく立ちはだかっています。異文化を「理解しようとする姿勢」は、好ましいものではありますが、それは「理解できるか否か」とは、全くの別問題であるということなのです。すなわち、長期間、異文化の中で生活すれば、絶対に相容れない文化的な価値というものが、必ず両者に存在し、「受入れられない」「理解できない」という異文化に、必ず遭遇することになります。この時に、あくまでも異文化を「受入れよう、理解しあおうと固執するお互いの姿勢」は、大きな、新たな問題原因にしかなりません。その意味において、異文化を理解するという姿勢は、時にはかなり「傲慢な姿勢」であるということに気づくものであります。先述しましたように、根本的に異なる雑多な背景の中で育まれた二つの異文化が、そう簡単に相互理解として理解しあえるものではないのです。すなわち、お互いが時間をかけて共有しあえば、すべての異文化は「受入れられる」「理解しあえる」ものだと考え始めた時点で、大きな問題を抱え込むことになってしまいます。そして、先述しました通り、ある異文化体験者は、異文化理解は難しいという感慨を抱いてしまうのであります。
G. 異文化を尊重するそれでは、どうしても理解しあえない異文化にどう対処すればいいるかということです。この時に必要なことは、異文化を「理解しようとする」ことではなく、両者が互いの文化を「尊重しようとする」姿勢に立つことです。理解できないときには、原点である異文化を「受け止める」という視点に立ち返り、それを互いに理解するのではなく、「絶対的に」「尊重する」という姿勢が求められるものです。最終的には、この異文化を尊重するという姿勢がある限り、異文化交流は決して悲観的にも、楽観的にもなることなく、両文化の視点が見えてくるものであります。そして、常に両者の異なる価値の中を行き来している自分を発見することが出来ます。すなわち、両国文化の価値の上に立脚した、新たな価値を有する自分を確認する時、異文化交流や異文化理解の大きな意義も、また見出すことが出来るのであります。 |
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