1.保護者へのメッセージ
お子さんが帰国して、数日が過ぎました。帰国直後の興奮や旅の喧騒も収まり、元の静かな日常生活をお送りのことと存じます。思った以上に逞しくなって帰ってきた息子、饒舌にさらに磨きがかかった娘、自己主張とは名ばかりの口答えだけの我が子、さらには、毎晩、毎晩の参加者達との長電話、ジェニファーがどうだの、リチャードがこうだのと、口から出る横文字の名前に驚愕しながらも閉口気味。「いい加減にしなさい、ここは日本よ。」と何回思ったことでしょうか、言われたことでしょうか。帰国直後の数週間のそんな時期も通りすぎて、あれはいったい何だったのかとも思えるほど、何事もなかったかのように、表面的には元の生活に少しずつ戻っていく頃でもあります。 説明会、オリエンテーションなどを通して、何回となくご説明してまいりましたが、センターのプログラムは、単なる旅行ではなく、外国でのホームステイという手法を用いて、「親からの自立」「客観性の確立と自律」「他者への感謝と配慮」「価値の相対性の発見」「自主性と積極性の醸成」「自信」などを、異文化下、すなわち、異環境下で養うことを第二義的目的と考えております。しかしながら、これらの成果というものは視認できるものでもなく、数十年に亘る、過去の数多くの参加者や保護者の声として指摘されてきたものです。ホームステイに参加したことによって、つまり、異文化生活を体験したことによって、感受性の強い、まだ年齢の若い参加者達は、内面的に相当な刺激と触発を受けて帰ってきております。この刺激や触発が、今後の生活にどのような形で影響していくのでしょうか。決して日本の日常生活においては体験できない、異文化生活ならではのこの体験を、彼らの将来に有益に、有意義に役立てたいとお考えならば、帰国後のこの数ヶ月間を大切にして、彼らの日常生活を注意深く観察しながら、そして、ここに記載されることを基調にして、適切な対応、そして、指導や助言を心がけていただきたく、そのような思いでこの資料を作成しております。 まず始めに、帰国後に作成してお渡ししました参加者の文集をお読みください。その中には、アメリカを出発して帰国の途について、わずか数時間後の、参加者の思いが生々しく表現されています。参加者の何の衒いもない、素直で、本当の気持ちを読み取ることができます。もちろん、全ての参加者が自分の思いを、すべて表現できているとは思いませんが、グループの全員が同様の体験をしているわけですから、ホームステイを通して、彼らがどのようなことを感じ、どのようなことを考え、どのようなことを思っているのかを、全員の文章を前にして、ひとつひとつを丁寧に読んでいけば、いろんな参加者がいろんなことを書いていながらも、大概、彼らの内面や心情を察することができます。 まず、そこに見られる記述の中で特筆できることは、間違いなく、数多くの生徒たちが、非常に多くの「感謝」の気持ちや意識を自覚していることです。誰から言われたわけでもなく、誰から指導されたわけでもなく、自らの気持ちで、自然に、素直に、そう表現しています。特に、ホームステイに参加させてくれた、日本の両親に感謝したいと書いている参加者が散見されます。おそらく、彼らが日本の家庭に帰ってから、直接、ご両親にそう言うことは少ないのでしょうけれども、心の中にそのような気持ちを抱いているということがよく分かります。これらの両親に対する「感謝」や、周囲のものに対する「感謝」、自分がお世話になった人達への「感謝」の気持ちは、自分自身を客観的に見ることができなければ、自然と涌き出てくるものではありません。そう言う意味では、参加者は異文化の、異言語下の、思うとおりにはいかない他人の家庭で生活することによって、自分を見つめなおし、日常の自分がいかに周囲の人々によって支えられているかを、自覚させられているのです。このような気持ちで帰国しているということを、まずご承知いただきたいのです。 帰国後、元の生活が始まっています。そして、血のつながる身内同士が、共同生活を行えば、必ずお互いに甘えが生れます。その甘えが親子の衝突の原因ともなります。ホームステイに参加したことがきっかけで、親と子のすれ違いが少しは生れている頃かもしれません。依然として異文化の興奮がさめやらぬのなら、おそらくかなりの感受性の強いお子さんでしょうから、ご両親としてはもう少し時間が必要かもしれません。それでも、全ての参加者の心中には、両親への感謝の気持ちがあったという事実を、保護者の皆様方には、深く知っておいていただきたいと思います。 次に、異文化の体験は刺激の連続です。これまで日本で生活してきた間に得られたあらゆる価値が、崩壊するような、そんな大きなショックを受ける参加者もおります。何しろ、異文化体験とは、日本の価値と全く異なる世界や価値が、体系的にそこにあることを、思い知らされることなのですから、当然といえば当然のことです。換言するなら、これまで一つの眼で見てきたものを、二つの眼で見るというようなことでもあります。何故なら、一つの文化しか体験したことがないということは、価値そのもを比較するものがなく、すなわち、その文化や価値が絶対的ですが、もう一つの文化を体験すれば、必ずそこに相対性が生れ、広い視野が生れるわけです。さらに敷衍すれば、一つの眼では二次元の世界しか見られませんが、二つの眼では三次元の世界を見ることができるという、単なる視野が広がるだけでなく、前後、左右と、相乗的に思考経路が拡大していくと言わざるを得ません。少なくとも、単眼で見る景色と複眼で見る景色は異質のものであり、全く別のものなのです。これらのことを理解すれば、参加者が体験した価値というものが、いかに壮大なものであるかと想像できます。それらのものを短期間で体験してきているわけですから、今の参加者の内面は想像できないほど、混沌としている状態かもしれません。この混沌とした状態であるかもしれない参加者の胸中を思えば、しばらくはある程度の距離をおいて、彼らと接することも大事だと思います。 先述いたしましたように、帰国後の参加者の変容は、センターによって意図的になされたものではなく、永年の多くの参加者とその保護者の指摘によって、センターの知るところとなり、数多くのそれらの指摘を基本として、その因果を帰納的にまとめていったものがこの資料です。この資料の中に書かれていることは、参加者の異文化体験を将来において有意義で、有益なものとするためのものです。ぜひ活用されて、適切な理解と、適切な判断と、適切な指導にお役立ていただきたいと思います。 |
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2.参加者へのメッセージ
ホームステイも終わりました。出発前、緊張して行きたくないという気持ちが、少なからずあったことが今では信じられないくらい、逆ホームシックを感じているかもしれません。帰国後、既に数週間が過ぎた今でも、多くの参加者にとってはあっという間のできごと、これまでの人生の中で最も充実した時間だったことでしょう。楽しい、想い出深い、夢のようなホームステイが終わりました。でも、せっかくの異文化体験を、「楽しかった。また行きたい。」という感慨で終わらせるのではなく、全ての参加者に考えてもらわなければならないことがあります。そうでなければ、異文化体験の価値も半減してしまいます。いや、半減するばかりではなく、逆に、ホームステイに参加したことが、マイナスともなりうることが起こってしまいます。そうなることはセンターとしても、大変残念であり、不本意なことです。これから説明されたり、指摘してあることを実践するか、しないか、皆さんのこれからの人生が大きく変わってきます。ぜひ、一つ一つをよく読んで、真に異文化生活を体験したものだけが得られる価値観を体得してほしいと思います。 まず、ホームステイを体験した参加者の帰国後の様子や言動、その後の進路や活動状況を調査し、分析すれば、過去の参加者は大まかに、次の三つの状態になっているといえます。一番目は、大きく膨らんだ異文化体験の刺激や興奮が、例えて言うならば、風船がしぼむように、時間の経過と共にしぼんでいき、行く前と同じ状態になり、あとには、「楽しい想い出」と「また行きたい」という思いが残るぐらいで、そして、漠然とした英語への進路や興味に発展したり、留学したいという希望を見出してはいきますが、現実の学習には繋がってはいないという事例です。二番目は、膨らんだ刺激や興奮そのものから離れられない、つまり、刺激と興奮の中にいることを夢見て、あの刺激と興奮をまだまだ体験したい、あの刺激と興奮の中で永遠に生活したいと、空想と現実の中に身を委ねながら、夢を食べて生活しているといえるケースです。あの生活の中に永遠にいたいという思いが、「留学」という言葉につながります。でも、夢見ての話しですから、具体的にそのための準備を始めることはありません。このケースは結果的には一番目に近いものです。しかし、一番目との大きな差異は、一番目は現実の中で生活していますが、二番目は現実になかなか帰ることができないという点です。そして三番目は、この膨らんだ刺激や興奮がきっかけとなって啓発され、エネルギーに転化され、同時に異文化体験が自分の人生に生きがいや目標を与え、日本での生活に前向きに作用し、日常生活において、これまでには見られなかったほどエネルギッシュで、積極的な言動が生み出されているケースです。もちろん、センターが参加者に望むのは、三番目のようなケースに参加者全員がなってもらうことです。 一番目のような事態に陥る原因は、帰国後、結局、参加者が何の行動も起こさなかったというところにあります。おそらく、参加者の半数以上がこのケースで、事例的にはこの状態が最も多いと思われます。二番目の状態に見られる参加者の共通項は、非常に感受性が強く、空想的で、逃避型の性向に見られ、圧倒的に女子参加者に偏っております。事例的には非常に少ないものではあります。帰国後の日本の現実生活になかなかなじめず、登校拒否やいじめ、集団からの離脱などの状態に発展していくケースも見られます。この原因は現実を直視できないところにあるようです。つまり、異文化生活は現実ではあったのですが、プログラム期間中だけの作為的な生活環境なのであり、恒常的な日本の生活の現実を受け入れようとせず、異文化でのあの生活の方が自分には向いていると考えてしまうわけです。ですから、日本の実生活に自らが壁を作り、自ら疎外感を感じてしまうようです。さらに、このケースの遠因となるのが、以下に詳述されているように、文化相対主義の価値観をなかなか理解できないところにもあるようです。そして、最も理想的な三番目のケースは、参加者および保護者が、プログラムの異文化体験の趣旨を理解し、オリエンテーションの内容や配布資料に基づき忠実に準備され、帰国後の帰国報告会の注意事項や資料を読み、考え、なおかつ、実行にうつすことを基本としているとセンターでは理解しています。事例的には参加者の30〜40%程度でしょうか。国際交流教育事業のプロであるセンターが、30年の実績の中で、多くの参加者やその保護者の指摘によって得たノウハウです。説明の言葉も難しく、理解しにくいところが数多く出てくるかもしれませんが、ぜひ、これらを参考にして、異文化体験で得られる最高の価値を自らが実践して、体得してほしいと思います。 ※「ある中学生のホームステイ日記」を読んでみてください。ある参加者の期間中の全日記です。一人の参加者がプログラムを通して、どのような成長を遂げていくかということがよく分かります。そして、ここで指摘する三番目のケースが、参加者の内面でどのように形成されていくのか、その過程を知ることができます。 |
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3.ホームステイで体験したことを整理する 既に、1万5千人を超える参加者が、センターの様々なホームステイプログラムで異文化生活を体験していますが、全ての参加者の体験内容は、ことごとく異なります。誰一人として同じ体験はありません。各参加者の体験は、唯一無比のものです。自分自身の体験の記録を作ってみてください。日記や写真を中心として、現地から持ち帰ってきたもの、期間中に得たものなどを、スクラップブックに整理したりして、出発から帰国までの、ホームステイ期間での出来事を、時系列で並べてみたらいいと思います。そして、ホストファミリーとの生活で思い出されるものを書きとめたり、日記に出てくる内容に、さらに付け加えたり、写真を見ながら、その時考えていたことだとか、感じていたことなど、何でもいいですから、こまめに期間中の全ての思い出を、その中に織り込んでみてください。 |
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4.何を学んだか考える
上記の整理をしながらでも構いませんが、そこで、自分が異文化生活体験中に、何を学んだか、どんなことを得たのか、考えてみることです。具体的に、期間中に最もうれしかったことは何か、最も悲しかったことは何か、最も嫌だったことは何か、最もつらかったことは何か、最も不安だったことは何か、そしてさらに、何故そうだと自分は思うのかなどと、自分で自分自身に様々な角度から、問いかけをしてみてください。そして、それらの問いかけに対する回答も記録したり、書きとめてみたりしてください。さらに、できるならそのことについて作文を書いたり、あることをテーマに、レポートを書いてみたりしてもいいでしょう。自分の感じたことをまとめたり、自分の考えを記録することは大変大切なことです。それらの行為をすることで、自分で自分自身を、自分の体験を、客観的に見ることができるようになります。そして、客観的な視点を養うことができるようになります。自分の体験や行為を客観的にみることができなければ、体験は単なる体験という現実や想い出でしかなく、体験と呼べるだけの価値あるものともなりえません。 そして、何を学んだかを、再度考えてみるのです。先述したように、客観的に考えてみてください。これが最も大切なことだろうと思います。自分自身に学ぶ姿勢があれば、人はどのような体験からでも学習できるものです。自分にその姿勢がなければ、どのような体験からも学ぶことができません。苦い体験からも、楽しい体験からも、苦しい体験からも、悲しい体験からも、さびしい体験からも、学ぶ姿勢さえあれば、人は学ぶことができるのです。逆にいえば、どのような体験や経験を踏んでも、学ぶ姿勢がなければ、客観性がなければ、人は学ぶことはできないのです。つまり、自分の体験を客観的な視点で見ることができれば、必ず、人は体験や経験を通して学習しているはずです。そして最後に、自分が異文化体験を通して学んだことが何であっても、どんなことであっても、学んだことのそれらを、今後の生活に「必ず、実践する」ということです。学んだことを、以後の生活に活かすということです。それをしなければ、学んだことは知識でしかなく、実際に役に立ちません。実生活に活かして初めて、単なる知識でしかなかったものが、さらなる価値あるのもへと転化していくのです。 |
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5.異文化体験者が考えなければならないこと
異文化体験をした者が、相応の客観性を持つ大人であれば問題のないことなのですが、自我の確立されていないティーンエイジャーとなると話しは全く別です。指摘しながら、注意しておかなければならないことが数多くあります。特に、ここから先は難しい話が多く、観念的な説明になりますが、理解しがたいところは保護者や周囲の指導者、センター職員などに尋ねるなりして、実生活に役立ててください。 一般的に、十代で異文化を体験したものは、その感受性の強さがゆえに、異文化の異質性に強烈に刺激され、異文化そのものの存在に興奮しており、それだけに、帰国後、周囲のものにその体験を話したがります。帰国当日、空港から自宅までの車内で、速射砲のように、息つく間もないほど、一方的に期間中の話しをするのは、多くの参加者に共通することです。そして、その傾向は、男子より女子に強く見られます。ところが、体験したことのない聞き手にとって、体験者(参加者)の話しは、一方的に聞くだけのものであり、一般的に両者に真のコミュニケーションは成立しておりません。ですから、片側通行の披露話であり、体験談であるため、ある程度の時間の経過後、何回も同様の話しを聞かされると、それらは全て自慢話のような錯覚にすら聞こえてきます。そして、下記の「参考」の欄に指摘されるように、参加者は周囲から否定的な目で見られることにつながります。 ところが、ホームステイ参加者が「文句が多い。」と言われる反面、「自己主張をする。」と言われたり、「でしゃばりである。」と言われながら、片方では「積極的である。」と言われるのは、数多くの示唆を含んでおります。何故なら、その二つの指摘は、ほとんど同意義であり、表現方法が異なっているにすぎないからです。つまり、例えば「自己主張をする。」と周囲の者が指摘する場合は、その異文化体験者は「肯定的に」見られているのであり、「文句が多い。」などと指摘される場合は、「否定的に」見られているのです。それでは何故、体験話が「否定的な眼」で見られたり、「肯定的な眼」で見られたりするかと言えば、話し手(参加者)と聞き手の対人関係に起因することもありますが、一般的には、話し手にその多くの原因があります。すなわち、聞き手が話し手の体験に客観性や説得力を感じれば、好意を持って聞き、「肯定的に」捉えられるのですが、余りにも一方的体験話で、皮相的な自慢話であれば、「否定的に」捉えるようになります。ここまで理解できれば、話し手にとって、話し手の体験話には「客観性や説得力」が、大変大切であるということが分かってきます。自分が体験したことを、主観的に、見たまま、感じたままを話しても、聞き手にとっては面白くもなく、辟易するものでしかないのです。例えば、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ(金門橋)に行った時の話しをするとき、「ゴールデンゲートにも行った。」とか、「大きくてすごかった。」とか、「あんな大きなつり橋は見たことない。」などと言われても、聞き手には何の興味も生まれません。けれども、「最初、そこに橋をかけると考えた人は、周りからそんなものはできるものかと言われたらしいぜ。」とか、「金門橋と瀬戸大橋は姉妹橋盟約を結んでいるらしいよ。」などの客観的で、具体的な話しになると、聞き手はもっと、もっと、それについて聞きたくなります。つまり、客観的な情報があれば話しは展開しますし、深い認識に基づく内容であれば、説得力が出てきます。そのためには、自分の体験を深く、深く、観察し、何事にも興味を抱き、自らが疑問を持ち、考えることによって、それらの客観性や説得力が養われていきます。反面、主観だけの話しでは皮相的で、浅薄な感じがします。そして、それを何回も聞かされると、聞き手は「否定的な眼」をもってしまうのです。 また、聞き手は話し手に羨望の気持ちを持ったり、その異文化体験に嫉妬を感じたりすることもあるかもしれません。何故なら、聞き手はそういう体験をしたことがないわけであり、ホームステイ参加者が小学生や中学生であれば、本人の力量とは関係なく、ただ単に保護者の理解と経済力があるだけで、そんな体験をしたに過ぎないと感じるからです。そうすると参加できなかった聞き手は、益々「否定的な眼」で見るようになり、時には「悪意のある、敵対的な眼」をもって話し手を見るかもしれません。 異文化体験者、すなわち、ホームステイ参加者は、これらの聞き手の、すなわち、ホームステイに参加したことのない方々(保護者や兄弟、姉妹、周囲の身近な人を含めて)の気持ちや立場や考え方を、深く想像してほしいと思います。言うまでもなく、体験したことのないものは、体験したことのある人の話しがすべてであり、それは聞くことしかできないものです。国際理解や国際協調では、「相手の立場に立つ」という姿勢が大事であり、異文化理解でも大切な視点です。参加者は異文化生活で、当然のように異なる社会生活を体験して、これらの「相手の立場に立つ」という姿勢の必要性を、第一に学んだはずです。そして、このことに異文化体験者が気づけば、その体験談は自ずから、抑制の効いたもの、節度のあるものになり、客観性のある、説得力のあるものになります。決して、一方的な披露話や体験談ではないため、未体験者の羨望や嫉妬を引き起こすこともありえません。そして、参加者の体験談が聞き手を「否定的な眼」にさせることもありえません。全てが、参加者の姿勢にかかっています。下記に多くの指摘があります。何故このような指摘がなされたかを自分なりに考えてみるだけでも、多くのことを知ることができます。今後の生活に活かしてほしいと思います。 参考:ホームステイ参加者が、帰国後、周囲から(家族や先生、友人達)指摘されること。 良い評価
悪い評価
どちらでもない評価
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6.文化相対主義と自文化(自民族)中心主義
文化を考えるとき、大まかに言えば二つの考え方に分けることができます。一つは「自文化中心主義」、もう一つは「文化相対主義」です。自文化中心主義とは、自分の文化の正統性と優越性を主張し、自分の文化の意にそぐわないものは排除していこうとする姿勢です。文化相対主義とは、文化を相対的に見るという姿勢であり、異文化を優劣や善悪、是非の問題で捉えるのではなく、一つの特徴、特質として、あるがままに理解し、尊重していこうという考え方です。 例えば、日本では食事をするとき、茶碗をもって食べる習慣があり、文化があります。もし、茶碗をもたずにご飯を食べようとすると、周囲の日本人から行儀が悪いとされます。ところが同様の場合、韓国では茶碗をもつという習慣はありません。ですから、茶碗をもたずにご飯を食べたとしても、誰も行儀が悪いということにはなりません。この例を考えるとき、日本人が自文化中心主義の視点で考えれば、茶碗をもたずにご飯を食べる韓国人は、行儀が悪い国民であるということになります。ところが、文化相対主義で考えれば、韓国の人が母国で茶碗をもたずにご飯を食べる行為は、韓国の文化的特徴の一つということになり、是非論や優劣という視点はありません。 多くのホームステイ参加者は、帰国後、「アメリカは……だ。」「アメリカ人は……だ。」と、自分の異文化体験を基調にして、演繹的にアメリカ全体に言及する傾向が見られます。そして、自分が体験したアメリカ文化やアメリカ全体のシステムが、日本文化や日本全体のシステムよりも、はるかに進んでおり、優秀であり、よいものであると理解する傾向があります。確かに、先進技術や科学が発展し、進化することは、人間の生活をより機能的にし、便利にし、豊かにさせます。でもそれは、文明が進化しての結果であり、文化が進展しているものではありません。つまり、この「文明」と「文化」を混同してはならないということです。文明は科学を基調とした物質的生活を発達させたものであり、文化は人知の精神的所産であります。文明の発達は豊かな物質生活をもたらし、生活を楽にさせ、人間にとって心地よい生活環境をもたらしてくれます。ですから、文明の進んだ国家で生活することは、人生をエンジョイすることの前提となるかもしれません。そして、この文明が進化するその格差が「先進国」と「発展途上国」という概念を生み出し、発展途上国の住民にとっては、先進国での生活が羨望のものとなりやすいことも理解できます。でも、先進国の生活は人間として便利で、豊かなものであり、反面、発展途上国の日常生活は原始的で、不便で、貧しいものであったとしても、そこにある両国の文化までもが、優秀であるとか、劣悪であることにはならないということを、私達は知っておかなければなりません。そこを誤解してしまうと、文明国の文化までをも肯定することなってしまいます。 この実際的な事例が、欧米人における自文化中心主義といえるかもしれません。つまり、欧米人に往々にして見られる、自文化中心主義的な考えは、この文明と文化を混同しているところに端を発しているように思われます。何故なら、自分達が産業革命以降の世界の近代化、文明化を担ってきたという自負心が、自分たちの文化までもが優れているように錯覚する遠因を形成しているように思われるからです。 その点、ホームステイ参加者達も年齢的に若く、文化を見る目が稚拙であり、客観性に乏しいため、自分が体験したアメリカの家庭生活や市民生活に見られる、先進的な文明の一端に接して、アメリカの文化までもが素晴らしいものであるかのような誤解を抱いてしまうのも、無理のない話しかもしれません。アメリカで体験した異文化は、アメリカ文化の特徴の一つとして、日本と異なることとして、まずは客観的に優劣という視点ではなく、特徴や差異として捉えるようにしましょう。日本側に立つのではなく、また、アメリカ側にも立つのではなく、自分自身は常に中立の立場で両国の特質を捉え、視野の広い視点で物事を見る姿勢が大事だと思います。単純に、日本のこういう点が優れているとか、アメリカのこういう点が素晴らしいと考えるのではなく、そのような側面が、何故生まれたのか、どのような背景が現況を反映させているのかなどを、じっくりと考えながら、両国の特質を深く探ってほしいと思います。 考え方のヒントを提供します。例えば、日本の子供達は定期的に毎月、親からお小遣いを貰う人が多くおります。ところが、ほとんど全てのアメリカの子供達は、親からお小遣いを定期的に貰う習慣はまず皆無です。彼らは家族の一員として当然のこととして、家事の手伝いをすることによって、報酬として親からお小遣いをもらうのです。今月は食事の後の皿洗いが与えられた仕事として、それに専念し、そして、10ドルを月の労働の報酬として受け取るのです。これは両国に見られる文化の違いであって、この両国の文化の有様を説明すると、数多くの日本人の親達は、アメリカの文化のほうが好ましいものであり、自分の家庭でもその方法を取り入れようとされます。何故なら、子供にお金の大切さを教えるのには、最適な方法だと考えるからです。そして、その判断がアメリカの文化のほうが素晴らしいとか、少なくともそのことにおいては、アメリカのお小遣いの与え方のほうが、適切であるというような判断をしてしまいます。どうでしょうか、ここまで読まれて、そのように感じた方も実際に多いかもしれません。 でも、この両国のお小遣いの話しには続きがあります。というのは、あるアメリカの母親の話しです。彼女は三人の娘を持つ母であり、ある時、日本の高校生の女生徒を、一年間ホームステイさせました。先述しましたように、アメリカの家庭には家族全員で分担する家事(Chores)があります。当然ながら、日本の女子高校生も家族の一員として、食事の後の皿洗いが、彼女の分担作業として与えられました。そして、一ヶ月後、洗濯当番の長女、掃除当番の次女、前庭の芝刈りと車洗い当番の三女が、それぞれにお小遣いを受け取りました。その時、この母親は日本人留学生の女の子にも、同様にお小遣いを渡そうとしました。ところが、彼女は目の前に差し出されたお金を見て、びっくりした顔で母親の顔を覗き、これは何ですかと聞いてきたのだそうです。母親は逆にびっくりして、あなたの一ヶ月間のお手伝いへの報酬ですよと説明しました。それを聞いた彼女は非常に当惑し、要らないと受け取りを拒否したというのです。この受け取り拒否に対して、母親はさらにびっくりしました。彼女にしてみれば、今まで一回もしたことのない体験です。自分の娘達は、仕事も終わらないうちから、目の前にお金をくれと手を出して要求するのに、この日本人高校生は拒否するのです。そして、何故、受け取らないのかを尋ねたところ、自分は家族の一員だから、家事の手伝いをするのは当たり前であり、お金を受け取る理由がないということ、日本でも同様のことをするし、日本の親からも養われているのだから、その分だけお手伝いをするのは、自然なことだという彼女の答えが返ってきたというのです。それを聞かされた母親は、彼女の理屈に感動し、日本人のこの考え方はなんと素晴らしいのか、なんと美しいのかと感動されました。そして、すぐに娘三人を呼んでこの日本の考え方を説明し、来月からその方法を導入すると言ったそうです。 この話しを論評する前に、もう少し説明しておく必要があります。何故、日本の高校生が受け取りを拒否したかという遠因には、日本でお手伝いはするけれども、定期的にお小遣いを貰うという文化があったからこそ、彼女は受け取りを拒否したということです。だからこそ、彼女は好意で家事の手伝いをすることができたのであり、アメリカの母親は、好意で労働を行う彼女の姿勢に感動した訳です。何故なら、アメリカの母親の常識は、労働と報酬は直結するものであり、無報酬のボランティアは家事分担において実存する概念ではなかったからです。それを日本の高校生が実行したからこそ感動しているわけです。定期的にお小遣いを渡すという日本の文化は、無報酬で、すなわち、好意で家事手伝いをする遠因を作っていることが分かります。そこまで理解した中で、改めて「お小遣いを定期的に与える文化」と「労働への報酬として渡す文化」を考えた場合、先ほどまでは米国の文化が好ましいものだと考えていた人も、ここに至れば分からなくなってきます。これが異文化を相対的に見るということから得られる考え方です。相対的に見ることによって視野が広がるだけでなく、単純に判断することができなくなり、様々な角度からものを考え、議論する必要性を感じてしまいます。ある特定の文化は、現実に実存している文化であり、体系的なものです。ひとつの断面を捉えて、絶対的に間違っているとか、他文化と比較して絶対的に優れているということはあり得ません。ある側面でそう判断したとしても、別の側面でその判断に疑問を感じることになります。そう感じさせるのは、異文化という別の価値を総合的に、体系的に体験するからこそ、起こりうることなのであり、文化を相対的に見る素晴らしさがここにあります。 |
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7.人的ネットワーク
私達は日本社会で生活しています。そして、これまで生活した環境の中で、各自が自分の人的ネットワークを持っています。この人的ネットワークとは簡単に言えば、自分の交際範囲や交遊相手であり、自分を取り巻く人間関係の相関模様といえます。例えば、A君は中学校に同級生の友人達がおり、部活の後輩と先輩がおり、担任や教科の先生方がいます。また、塾を通じての学校外の友人もおり、塾の先生もおります。さらには、ご両親の親戚を通して、祖父母、叔父、叔母、従兄弟達の親族もいます。また、姉や弟の友人とも友達かもしれません。これらがA君の人的ネットワークであり、君を中心としたネットワークを絵に書くことができます。その絵の全体がA君の人的交流の財産であり、このネットワークが大きくて密度の濃いものであればあるほど、その人の人生は充実したものとなります。何故なら、人間は社会的動物であり、一人では生きていくことのできないものであり、常に、他者との関りの中で生きていくことを宿命とされている動物だからです。他者との関りが宿命である以上、この関りを健全な状態に保ちながら、しかも継続的に良好なネットワークとして、相手との人間関係を構築していくことができれば、A君という一個人ではできないことも、A君の人的ネットワークを通して可能になることがおこるからです。そのようなことについて、もう少し、例をあげながら説明してみましょう。 例えば、ある日の夜、A君が宿題をしているとき、わからない数学の問題がでてきました。自分一人だけではどうしてもできないことが、世の中にはたくさんあります。A君も一人ではその問題がわかりません。そこで、もしA君が学校の数学の先生と良好な人間関係を築いていれば、直接、先生のところに電話をして、教えを請うことができます。でもそうでなければ、塾の先生に教えてもらうという方法をとるかもしれません。ところが、塾の先生ともそのような間柄でなかったら、別の方法を考えます。そこで、友人のB君が数学に秀でているということで、B君に電話をして尋ねるという方法に思い当たるかもしれません。残念ながら、そのような友人がいなければさらに考えます。そこで部活の先輩のCさんに、いろいろと相談できる気軽さもあって、電話をしてみます。すると、Cさんが言うには、Cさんの友人にD君という数学の大変できる友達がいるということで、彼に聞いてあげるという返事をもらいます。そしてしばらくすると、Cさんから電話があり、A君が直面している問題の件をCさんがD君に話しておいたから、直接電話をしたらいいということで、A君はD先輩の電話番号をCさんから教えてもらい、恐る恐る電話をすることになります。勇気を振るって電話をすると、D先輩は気軽に応じてくれて、A君の数学の宿題を簡単に解いてくれました。そして、この問題は解決されます。翌日、A君はD先輩のところに会いに行って、昨夜の件のお礼を言いました。すると、先輩はA君のような礼儀正しい後輩を見たこともないと言ってくれて、また同じようなことがあったら、いつでも電話をしていいぞと言われます。A君はうれしくなります。そして、A君の人的ネットワークの中に、新たにD先輩という人が加わることになるわけです。そして、D先輩とのつきあいは、紹介してくれたCさん以上に強固なものになるかもしれません。さらに、D先輩を通して、D先輩の友人達ともつきあいが始まるかもしれません。 それでは、この例を整理してみましょう。もし、A君が会ったこともないD先輩に電話をするのを躊躇していれば、A君のネットワークの中にD先輩は追加されなかったでしょう。そういう意味では、A君の積極性がD先輩という新しい知り合いを作ることに役立ったということになります。また、もし、A君が翌日先輩のところにお礼に行くということをしなかったら、D先輩はどのようなことを感じたでしょうか。きっと、礼儀知らずな奴だなと思うかもしれません。また、その一週間後、A君が全く同様に数学の宿題に行き詰まったとき、直接、D先輩のところに電話ができるでしょうか。もし、A君がD先輩との関係を良好にしておけば、電話は簡単にできるでしょうし、さらに、D先輩との関係が深いものとなっていきます。ところが、最初の時点でD先輩との関係を教えてもらいっぱなしで、放置していたら、D先輩に電話もできないばかりか、D先輩を紹介してくれたDさんにも電話をすることがしにくくなります。何故なら、CさんからまたD君に頼んでみたらと言われたら、もうどうすることもできないからです。そういうことを考えれば、A君がしっかりと翌日、D先輩のところにお礼に行ったということが、D先輩を自分のネットワークに組み込むことができた大きな原因となっていることがよくわかります。そういう意味では、A君の律儀さが彼のネットワークを広げたということになります。このように、自分の人的ネットワークを良好に、巨大なものとしていくためには、自分中心に考えてはいけません。相手との関係を常に考えながら、一方通行ではなく、相手の立場に立って、相手のことを常に念頭において行動することが大切になってきます。ネットワークを巨大化できる人は、相手のことを常に考えている人なのです。そして、その気持ちが、他人に対する感謝という形で必ず表れてくるものなのです。 それではこれらのことを踏まえながら、今回のホームステイのことを考えてみましょう。今度のホームステイを通して、どれだけ多くの出会いと別れを、参加者の皆さんは体験したのでしょうか。まず、参加者達はこれまでの日常生活の枠を超えて、巨大なネットワークの網となる拠点を、全く新しい所にもつことができました。それは、ホームステイのグループの友人達です。グループの友人達の住む町は、お互いに異なっています。自分の住む町より100キロも離れたところに住む人とも友人になりました。また、離島に住む友人もできたかもわかりません。さらには、県外の友人もできたかもしれません。つまり、これまで作り上げたネットワークの場所を、はるかに超えた遠方に、同じグループの友人達は住んでいるのです。その友人を核として、さらに友人のご両親とも良好な関係を作り上げ、その友人の友人すらも自分のネットワークの中に取り込んでいけるかは、すべてこれからの参加者の交流姿勢にかかっています。自分の人的ネットワークを巨大なものにできる人は、必ず、社会において成功できる人間になります。何故なら、社会そのものは、人によって形成されているのであり、その人のネットワークが巨大なのですから、言わずもがなの原理です。ぜひ、出会った人達との交流を大事にしてほしいと思います。もちろん、引率の先生とも同様の事が言えます。 次に、今回の最大の出会いである「ホストファミリー」との人間関係を考えてみてください。ホストファミリーはアメリカに住んでいます。皆さんは日本に住んでいます。全ての参加者が、アメリカにホストファミリーという人的ネットワークの拠点を、作って帰国しています。この拠点を核として、果たして全ての参加者が自分の人的ネットワークを、アメリカに構築していくことができるかという大問題があります。TCの先生方もいます。友達のホストファミリーとも顔見知りになっていると思います。さらには、ホストファミリーの近所の方と知り合いになった人もいるはずです。これらの方々が全て参加者の人的ネットワークの核です。来年の今ごろ、この小さな核が消滅してなくなっている人もおります。また、さらに大きな核に発展させて、自分のアメリカにおけるネットワークを確かなものとしている参加者もおります。すべてがこれからの皆さん方の彼らとの「付き合い方」次第だと思います。せっかくの異文化体験で得た、人的ネットワークの灯火を絶やすことがないように、より巨大なものとするために、参加者の皆さん方の努力を、今後も大いに期待したいと思います。そして、もし、アメリカに自分の人的ネットワークを確立できれば、皆さんの人生は極めて、多様性に富み、前途洋洋たる可能性を秘めた、まさしく国際人としてのスケールで展開されるものとなるでしょう。ぜひ、このことを自覚して、これから将来において、幅広い人間関係を作り上げていってください |
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8.英語と留学について
このホームステイを通して、参加者が最も刺激を受け、興味を抱いたことの一つに、間違いなく「英語」という言葉があると思います。それまでは学校の教科でしかなかったものが、身近で必要な道具として感じられ、ほとんどすべての参加者が「もっと英語がしゃべられたらなぁ。」と、何度思ったことでしょう。そして今では、英語が話せるようになるため、漠然と「アメリカに留学したいなぁ」と、考えているかもしれません。おそらく、これらの思いは、ほぼ全参加者に共通していることだろうと思います。 「もっと英語がしゃべられたらなぁ。」と本当に思った人は、ぜひ、その思いを大事にして、実現に向かって行動してください。そのためには当然のことながら、英語を勉強するということです。多くのホームステイ参加者は、ホームステイ期間中、英語が思うようにしゃべられない不自由さを感じましたが、同様に、ホストファミリーとは何とかコミュニケーションはとることができたという自信も持っています。特に帰る頃には、ホストファミリーの言っていることはほとんど理解でき、コミュニケーションすることに、ほとんど不自由はなかったと考えている人も数多くいます。そして、そのような状態になったことで、英語を勉強しなくても、英語圏で生活しさえすれば、自動的に英語が話せるようになると誤解する人が数多くおります。また、ホームステイに参加したことが、逆に作用して、アメリカでホストファミリーと、ある程度自由にコミュニケーションをとることができたので、英語は勉強しなくても大丈夫だと、錯覚してしまう人すらでてきます。果たして、それは真実なのでしょうか。本当にそうなのでしょうか。次に、このことを考えてみたいと思います。 まず、帰る頃、ホストファミリーと、ほとんど自由にコミュニケーションができたという参加者の感想は、本当なのでしょうか。答えは、半分が「イエス」で、半分が「ノー」というものです。本当にできるようになったかということを確かめる最善の方法は、日本の自宅から、ホストファミリーのところに電話をかけるということです。そう思っている人は、ぜひ、電話をかけてみてください。どれだけ、電話でコミュニケートできたでしょうか。おそらく、ほとんどコミュニケートできなかったと思います。それでは、ほとんどの参加者がうそをついているかというと、それも違います。確かに、帰る頃、参加者はコミュニケーションをとることができました。でもそれは、ホストファミリーの意図が、ある程度だけ推測できたということだけなのです。何故、推測できたのかということを考えることが重要なことです。もし、それを考えなかったり、そのままどうでもいいやと放置してしまったら、将来において大きな間違いを犯してしまうかもしれません。 例えば、ホストファミリーの家庭で夕食を食べています。そこで、ホストファザーが「Keiko, Will you pass the salt?」と言ったとしましょう。中学1年生のケイコは、その文章の構文や単語を全然わからなくても、おそらくホストファザーは手を伸ばしながら、そう言っているでしょうし、夕食がステーキで、ファザーはそれをナイフとフォークで切っていたこと、ファザーが自分の前にある塩の方を見ていることなどの、言葉以外の情報から、「塩を渡してくれ」と言っていることが、漠然と推測できるわけです。そして、おもむろに塩を取って渡すと、ファザーが「Thank you」と言ってくれたことで、初めて自分の推測に間違いはなかったということが確認できるわけです。ここに見られるコミュニケートできた理由は、言語ではなく、それ以外のものが大きく関っています。それは、「その場に同席しているということ」「相手がどのような状態でいるかということも知っているということ」、そして「動作」や「表情」が、コミュニケーションを可能とさせる遠因となっています。そして、もちろん帰る頃はヒアリングが向上していますので、簡単な単語は理解できるようになっているかもしれません。この例えの場合、文の要の「salt」という単語は、理解できたかもしれません。そうであれば、構文は知らなくとも、ファザーの行為から容易に推測できたかもしれません。このように、参加者はホストファミリーと同じ場所にいて、同じ環境で、同じ時間にコミュニケーションをとりますので、言葉以外の情報がたくさんそこにあることで、コミュニケーションの多くを支えられていたということがわかります。ですから、その支えが全くない電話では、コミュニケーションが難しくなるのです。 コミュニケーションをとるとき、最も早くて効果的で、便利な方法は、言語を使うことです。この言語を習得するには、その母国に行って習得することが、最も手っ取り早い方法ではありますが、それはある程度の当該国言語の文法的基礎が習得されていることを条件とした場合のことです。全く基礎的英語学習を行わずに、留学をしてもその効果は半減してしまいます。語学の習得において文法は基礎です。ですから、まず、学校で習う「文法」を地道に学習することです。センターはこの文法を徹底して学習することを、最も参加者に推薦したいと思います。その文法がある程度理解できて、学校における英語学習が得意教科と思えるようになったとき留学すれば、かなりの結果と成果を導き出すことができます。ということは、換言すれば、この基礎英語力のないまま、すなわち、文法力の無いまま、英語圏で生活しさえすれば英語は身につくというような安易な気持ちで、留学をしてしまうと悲惨な結果に遭遇することになります。つまり、留学とは名ばかりの、遊学とでも言っていいような留学の事例を、センター職員はどれだけ見てきたことでしょうか。このことを充分に理解して、学校における英語の学習に励んでください。そして、最後に留学について、プロとしての立場から、少し提言しておきましょう。 留学と一言で言っても、その目的や内容によって呼び方は様々ですが、一般的には、高校留学、大学留学、語学留学がよく知られたものです。そして、高校生で行くのが「高校留学」、大学で行くのが「大学留学」、英語の勉強に行くのが「語学留学」というぐらいにしか、一般的には知られておりません。でも、それは大きく間違った認識であり、そう単純なものではありません。そのような認識しかない中で、例えば多くの高校生が高校留学を希望すると、周囲の先生方や大人達は、今は大学受験に専念して、大学に入ってから留学すれば、というような安易な指導や助言を行ったりします。このような乱暴極まりない指導や助言は、大きな問題であり、将来に禍根を残すことになりかねません。例えるなら、中学生が部活で野球部に入部したいと考えているとき、スポーツだったら、高校生になってからサッカー部に入ったらいいと助言することと何ら変わりはありません。何故なら、これらの留学を目的別に分ければ、語学留学とは「語学の習得」が目的であり、大学留学は「卒業」が目的であり、高校留学は一般的には、「文化の交流」が目的です。このように目的の異なるものが、同じ視点で論じられるところに、まず留学に関する間違ったスタートがあります。この目的から論ずれば、高校留学は極めて公益性の関与しているものであり、大学留学や語学留学は、個人の資質を高めることを目的としたものであるとも言えます。 すなわち、高校留学は留学先国の同世代の若者達と時間と場所を共有しながら、国家や民族、言語や習慣を超えた異文化間の交流が目的であり、語学の習得や高校卒業という個人的目的ではありません。大学留学は個人の学士号の取得が目的ですが、その前に当該国の大学で学習するだけの言語能力があるかが大問題であり、大学留学以前の問題として、その国の言語習得に多くの時間を費やすことになり、その成果のあとに、大学留学という現実が発生します。語学留学とは、前述の大学留学以前の段階であり、個人の外国語の習得だけを目的とし、実際においては、この語学習得だけでも日本からの留学生は汲々としている現状があります。センター職員が多くの留学希望者のカウンセリングを行えば、実質的な目的は、外国人と英語で意志疎通ができる程度の英語力を養うことであることが圧倒的に多く、その現実を踏まえれば、日本人の大多数の留学希望者は、わずか一年間の高校留学で目的は達成される可能性が高くなります。そのような現状を知るものとしては、一般論として、高校留学を最も推薦することとなります。しかしながら、当然、各留学の持つ特質や特徴、長所と欠点、またそれぞれに問題性もあり、安易に断定できるものでもありません。いずれにせよ、留学については複雑で、専門的な知識も必要であり、プロのアドバイスを聞いてみる必要があります。ですから、これら留学を進路の問題として話しをするとき、素人だけで論ずれば、ほとんど間違った判断を下すことになりかねません。また、日本の中学校や高校では、通常の日本の高校や大学、専門学校への進路、および就職に関する指導については、実績も情報もあり、適切な進路相談をうけることができますが、残念ながら、ほとんどの日本の中学校や高校の進路室では、この留学希望者に対しては対応するだけの情報も実績ももちあわせてないのが実状です。時には、留学体験者の先生がいて、その方が相談に応じることがあるかもしれませんが、プロの視点から見れば、適切な方法だとは到底考えられません。本当に、留学を希望する場合は、ぜひ、専門的な留学カウンセラーに相談することをお勧めします。ただし、その際は、プロの留学カウンセラーは、留学するための技術的なノウハウは指導されますが、留学そのものの是非には言及しないことが落とし穴です。つまり、「はじめに留学ありき」でカウンセリングが始まるのことが、最大の欠点であることを知っておいた方が得策だと思います。 |
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9.最後に
ホームステイを終えた今、考えてみれば、アメリカ人はみんな親切だったと、多くの参加者達は思っているかもしれません。でもそれは間違いであり、認識不足もはなはだしいと言わざるを得ません。参加者の周辺にいたホストファミリー達は、一般的なアメリカ人ではなく、ホストファミリーというボランティア活動に参加された、つまり、ある特定される目的に対して、ボランティアで活動することに賛同された人の集まりであったと言うことです。プログラムの趣旨を理解されていたからこそ、時には寛容であり、親切であったと言うことです。もちろん、ほとんどのアメリカ人はフレンドリーではありますが、すべてのアメリカ人がホストファミリーのような方々であると理解するのは、大変危険であり、禁物です。 そして最後に、ほとんどの参加者はプログラム参加にあたり、両親から多大の経済的支援を受けて、この異文化生活を体験できたわけですが、これから約30年後に子を持つ親となったときに、果たして今度は自分の子供に対して、親としてこの体験を経済的に支援してあげられるだろうかということを、常に自らに問いかけ続けて欲しいと思います。
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